2011年8月12日金曜日

お金Ver.4:エネルギー本位制(≠CO2本位制)の経済

先に「お金Ver.3:お金のしくみの問題点」をお読みください。

新しいお金の仕組み
新しいお金Ver.4は、お金Ver.3のバグを潰しにいくか、それらのバグを見据えた上で全く新しいアプローチを取りに行くかだろう。

お金Ver.3のバグを潰しに行ったものに、「地域通貨」、「エコマネー」がある。それらはお金の流通地域を限定することで、「お金Ver.3」のバグを潰すことができている。このため、「お金Ver.3」の受け皿になることはできない。

はたして流通地域を限定せずに、お金Ver.3のバグを潰すことなどできるのだろうか?

お金Ver.4「エネルギー本位制」のお金
先に挙げた「お金Ver.3」のバグのうち、1と3の解決アプローチは同じだ。それは、「お金をどう地球の資源に根差させるか」ということだ。

とは言え、金や石油といった「現物」に根差させるのは無理だ。絶対量が頭打ちになるからだ。

絶対量が頭打ちにならない資源なんてあるのか?

それは、エネルギーだ。

地熱、風力、太陽光など未開発のエネルギーは数多く存在する。このエネルギーを「発電」などの形で利用できる状態にし、「電力」などその時点で利用可能なエネルギー供給力を「お金」の発行量の根拠とする。つまり、「エネルギー本位制」だ。

(ここからは「夢物語」、もう完全に妄想である。)

ある国がエネルギー本位制の「お金」を始めたとしよう。

通貨の発行額が「エネルギー自給力」によって規定されるのだから、おのずと自然エネルギーを開発しなくてはいけなくなる。自然エネルギー開発にはお金がかかるが、その国の通貨が本位制であるがゆえに、通貨としての信用は他国に比べて格段に高くなる。

ヘンな話だが、その国の通貨の流通量が少なく、信用が高ければ、その通貨が強くなるので、お金が借りやすくなる(かもしれない)。(このあたりは、書いている本人も、なんかヘンな話だなと思っているので、突っ込みたい人は突っ込んでいただきたい。)

自然エネルギーの開発が進み、エネルギー自給率が100%を超えたら、その国の産業は強くなる。なぜならば、エネルギー自給率が100%になれば、エネルギー価格が世界の政治・経済事情に左右されなくなるからだ。エネルギーは第1次、第2次、第3次問わずあらゆる産業に共通して必要なのだから、あらゆる産業にとってプラスだ。

これまた非常にヘンな話だが、経済のグローバル化に対してエネルギーのローカル化が強力な武器になるのだ。

エネルギー自給率が通貨の流通量を規定するので、国ができる借金の上限も自動的に決まる。これは、現在のように政治家や官僚が国民を騙すということができない仕組みだ。

したがって、エネルギー自給率の上昇率が経済政策、金融政策において何らかの重要な意味を持つことにはなるだろう。

とは言え、「エネルギー本位制」でも、バグ2「複利」とバグ4「金融商品の複雑化」をフィックスするには、もう一捻り必要だ。

エネルギー本位制」という言葉から、国連環境計画 金融イニシアチブ特別顧問の末吉 竹二郎さんが説く「CO2本位制」を思い浮かべる方もいらっしゃるだろう。しかし、全く別のものだ。本位制とは「通貨の兌換制度」のことである。「CO2本位制」は、「CO2排出権が世界通貨のような重要な役割を担う」というメタファー(比喩)だ。

このコラムをきっかけに、お金Ver.4の姿について何かビビッと来ていただければうれしい。

参考図書

お金Ver.3:お金の仕組みの問題点

2011年8月2日、米国債がデフォルトするのではないかという懸念が高まった。米国議会は、「国債発行額の上限引き上げ」という形でデフォルトを免れた。何のことはない。単なる「問題の先送り」である。

この問題は、何も米国に限ったことではない。あらゆる国に起きうる。もちろんわが日本にも。

この問題の本質は、「各国の中央銀行が実体経済を超える額の通貨を発行できる仕組み」と「実体経済が追いつかない額の借金ができる仕組み」にあるからだ。米国でなくても実体経済が追いつかない額の借金をしたら返せる訳がない。

このコラムでは、経済屋ではない私が環境屋の観点から「お金の仕組み」を捉え、
  1. 現行の「お金(ver.3)」のメカニズム(からくり)
  2. 新しい「お金(ver.4)」の姿
の2点について走り書きする。

現行の「お金の仕組み」の問題点
「お金の仕組み」を考える前に、そもそも「お金って何なのか?」というところから確かめたい。

「お金」の3機能

お金には、大きく「価値交換」、「価値尺度」、「価値保存」の3つの機能がある。

  • 価値交換:財(モノ・サービス)と交換することができること。
  • 価値尺度:財(モノ・サービス)の価値を数値化できること。価値を価格という尺度で計れること。
  • 価値保存:時間が経過しても価値が変わらないこと。例えば、ある八百屋さんがバナナ1盛り200円で売っていたとする。今日売れ残ったバナナは、翌日には200円の価値はない。100円の値札が貼られているだろう。しかし、お金は傷まない。昭和50年の100円玉も、平成20年の100円玉も、私たちは100円の価値があると信じて使っている。
    • 「お金」の3機能のうち、この「価値保存」が曲者だ。なぜなら、この機能は「物品で持っているよりもお金で持っている方が有利」という状況を作り出しているためだ。
これら3つの機能を持ったものが「お金」だとすると、一見、「お金」そのものに問題はなさそうに思える。そこで、今度は「お金」のバージョンを振り返って、「お金」がどうバージョンアップしたのかを確かめてみたい。

「お金」のバージョン

お金Ver.1:原材料価値と価格が一致していた「お金」

人類史上初のお金は、「貝殻」や「石」のような物品貨幣(自然貨幣)、「穀物」や「家畜」などの商品貨幣だった。
私たちは英語で給料のことを「サラリー(salary)」と言う。その起源はラテン語の「塩(sal)」で、古代ローマ帝国で兵役についた市民に塩で給料を払っていた名残だ。

わが国にも似たような名残がある。例えば、福井県に旅行に行けば、「加賀百万石」の史跡があちこちにある。この「百万石」というのは、江戸時代の藩の財政規模を指す。これは「石高」、つまり「米の生産量」が通貨単位として用いられていたことを示している。

「物品貨幣」の次に登場するのが、「鋳造貨幣」つまり「コイン」だ。青銅、銅などによる鋳造貨幣が登場するのは、紀元前7世紀のリディア王国(現トルコ)だった。
鋳造貨幣がそんなに早く登場したことを考えると、物品貨幣が長く続いたのが不思議に思うかもしれない。その理由は、もともと「コインの額面価格」と「コイン鋳造量相当の金属の価値」が一致していたことに関係がある。

現在のコインは、1円玉を除いて、鋳造貨幣の額面はそのコストよりも安い。現在の私たちの感覚なら、「額面価格と等しい品質のコインなんか作ったら、コインが足りなくなるじゃないか?」と思うだろう。

その通り。足りなくなって、鋳造コストが上がったのだ。

ましてや、「お金」という語源の通り、「」のような希少な金属が使われていたら、そんなことがいつまでも続けられるはずがない。原材料価値と価格が一致していた「お金Ver.1」は、アップグレードせざるをえなくなる。

お金Ver.2:原材料価値と価格が一致しない「引換券」としての「お金」

コインの原料金属が足りなくなってくると、コインの額面価格をそのままで、より安い金属を混ぜ込んで鋳造することになる。お金Ver.1のパラダイムで生きていた人たちに、そんなことが受け入れられるはずはない。その結果、インフレーションが起き、コインが信用できなくなる。やはり信用できる「お金Ver.1」が要る。だから、物品貨幣も長生きした。

とは言っても、経済規模が拡大していけば、やはり物品貨幣では困る。どう考えても、持ち運びに不便だからだ。

そこで、登場したのが「紙幣」だ。最初の紙幣は、11世紀の宋(現中国)で登場した。紙幣と言っても、現在でいう「手形(割符)」のようなもので、民間の会社が発行していた。

ところが、これが便利だということで、その会社と無関係な取引にも使われるようになった。その後、銀行という仕組みが発明されると、銀行がこぞって銀行券を発行するようになった。これが起源になって、各国の中央銀行が発行する銀行券になっていった。

当然ながら紙幣は額面価格よりはるかに安いコストで作っているので、紙幣が普及するようになって、鋳造した金属の価値と一致しない貨幣も受け入れられるようになっていった。

お金Ver.2」が受け入れられたのは、その価値を金と交換できることで保障する「金本位制」のような「兌換性(だかんせい)」があったからだ。つまり、原材料価値と無関係でも「引換券」として機能することが国家に保障されるようになって「お金Ver.2」の時代になっていく。

お金Ver.2」は、20世紀の「お金の革命」によってあっさり「お金Ver.3」に取って代わられた。

お金Ver.3:「引換券」にもならない不思議な「お金」

複利20世紀に入ると、3段階の「お金の革命」が起きた。第1弾は、「複利」だ。

例えば、8%の複利でお金を貸して、10年後に一括返済してもらうとしたら、元金の何倍を返してもらうことになるだろうか?
2.1倍である。一括返済というのは極端だとしても、複利であれば返済額の増加は直線的でなく、このグラフのような上昇曲線を描くことに変わりはない。
つまり、複利とは、企業に事業の急拡大を迫る仕組みなのだ。だから、あらゆる商品の価格には金利が上乗せされる。複利は、経済規模を拡大し続けなくてはいけない仕組みなのだ。必然的に地球上の資源消費が加速する。

お金の革命」第1弾「複利」が資本主義経済に浸透すると、(実体経済以上に)経済規模が急拡大する。そうなると、「お金Ver.2」の「引換券」としての性格が邪魔になる。

そこで、「お金の革命」第2弾が起きる。それが「兌換性の廃止」だ。「兌換(だかん)」とは、紙幣を額面金額と同価値の金銀貨または金銀地金などの正貨と引き換えることを言う。

20世紀に入ると、世界各国が兌換制度を廃止し、「変動相場制」に移行した。「変動相場制」とは、互いの通貨で互いの価値を保障しようというものだ。1971年、ついに米国も米ドルの金との兌換制度を廃止し、完全に「変動相場制」に移行した。

これで、完全に通貨の兌換性がなくなった。通貨の兌換性がなくなることは、地球の資源量と無関係に通貨を発行できるということになる。つまり、お金が一部の国家権力者たちのさじ加減で発行できる可能性を持ったということなのだ。

こうなると、お金はもはや「引換券」ですらない。「お金Ver.3」の誕生である。

さらに「お金の革命」第3弾「金融商品の複雑化」によって、お金はついに一人歩きを始める。

20世紀半ばの米国で自動車ローンが始まった。これは現金で買う能力のない人に車を買わせる 買わせる仕組みだ。
これを機に米国ではモノを買わせる仕組みとして金融工学が駆使されるようになった。支払能力のない人にモノを買わせる仕組みの究極が、サブプライムローンだ。しかも、このサブプライムローンの債権が証券化され、様々な金融商品に組み込まれたため、どの金融商品にその債権が含まれているのか容易に把握できなくなった。
企業の債務不履行リスクを補償する「CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)」も似たようなものだ。昨今の金融危機でCDSを大量に売った金融機関がたちまち経営危機に陥ったこと。このことからも、いかに根拠のない金融商品だったかが露呈した。このように複雑化した金融商品は、お金の一人歩きを助長した。

「お金」は、Ver.3から「各国の中央銀行が実体経済を超える額の通貨を発行できる仕組み」かつ「実体経済が追いつかない額の借金ができる仕組み」となった。

お金Ver.3」の台頭により、「お金Ver.2」までは問題にならなった「お金」の構造的欠陥が露呈した。

お金の構造的な欠陥
板倉雄一郎さんの「お金と経済の本質 [価値を創出するものが豊かになる] 」というDVDの中で、洗面器を例にモノの価格がどのように決まるかという話が出てくる。
洗面器の原料である原油を掘り出した人が最初に値決めして、その後の工程に関わった人たちのコストが次々に乗っかって、洗面器の値段が決まるという話だ。
なんだ?ごくごく当たり前の話じゃないか?
・・・ということなかれ。地球から見ると、これはおかしい。原油を最初に出荷したのは地球である。それにもかかわらず、地球は値決めしていない。つまり、地球からの出荷価格は無料だ。
お金」は全バージョンを通じて、すべての自然資本はタダなのだ。地球から見ると、お金の仕組みに地球が参加していなければ、地球の資源消費に歯止めがかからないことは明らかだ。
お金Ver.2」までは、その流通量が地球の資源量に根ざしていた。例えば、金本位制のお金なら、「金」という資源によって規定されていた。それだけ、お金の流通量が人間の利用可能な地球の資源量に対してわずかだった。そのため、地球さんからの仕入れがタダであることは全く問題にならなかった。
ところが、「お金Ver.3」で実体経済を凌駕するお金が猛威を振るう。人間は出荷価格無料の地球さんからの仕入れを急拡大する。しかし、地球さんの提供可能な資源は有限なのだ。ここに、地球環境破壊の本質的な問題点がある。

お金Ver.3のバグ(まとめ)
  1. 地球からの出荷価格が無料:環境破壊を加速する仕組み
  2. 複利:事業の急拡大を促す仕組み=地球上の資源消費を加速する仕組み
  3. 兌換性の廃止:各国の中央銀行が実体経済を超える額の通貨を発行できる仕組み
  4. 金融商品の複雑化:実体経済が追いつかない額の借金ができる仕組み

さて、前置きが長くなった。いよいよここから、「お金Ver.4」への夢を語りたい。

2011年5月19日木曜日

ジョン・レノンのイマジンの「あの白いピアノ」


John LennonのImagineのビデオで観た「あの白いピアノ」が復刻されている。ただのレプリカではない。なんとあのSteinway & Sonsが作っている正真正銘の復刻版だ。

しかも、その1台を今日見てきた。

たまたまオフィスの近くを歩いていたら、野中貿易というスタインウェイの正規代理店のビルが目に止まった。そこには「あの白いピアノ」が展示中という貼り紙があった。インターフォンを押して「是非観たい」とショールームに伺った。

コンサートホール用のグランドピアノより小ぶりなサイズで、可愛らしく美しい。

譜面台にジョン・レノンの自画像がプリントされていたり、内部のフレームにイマジンの楽譜がプリントされていたりして、日本のメーカーがこんなことしたら安っぽいキャラクターグッズに陥ってしまうところなのに、どういうわけか気品が漂う。不思議だ。

内部のフレームに刻まれた数字は、223台目を示すシリアルナンバーだろうか。

当時ジョン・レノンが小野洋子さんのバースデイプレゼントに贈ったという「あの白いピアノ」の復刻モデルは、5月25日まで横浜馬車道ピアノサロンに展示されている。

小さなショールームなので見に行くときは電話を入れたほうがいいかもしれない。(飛び込みで見てきたくせに、スミマセン)

2011年3月12日土曜日

関内でも液状化現象?

地震の翌日、関内のオフィスに物を取りに行った。

関内ホール前の彫刻の台座が歩道から浮き上がっている。

関内ホールそのものも歩道から浮き上がっている。

関内ホールだけでなく、関内では他にもこのような場所を見かける。もしかして関内では地盤が液状化しているのだろうか?

横浜市液状化マップを見る限り、液状化予測地域から外れていそうなんだけどなぁ・・・

2011年3月11日金曜日

大地震に思う職住近接のありがたみ

3/11(金)の大地震には驚いた。そのとき僕は関内の友人のオフィスにいた。

「この地震は長いなぁ」と思って出口確保のためにエレベータホール側の扉を開ける。

その頃から揺れが大きくなり、扉を押さえて立ち尽くしたまま動けなくなる。目の前の壁にみるみる亀裂が入っていく。

パリンとガラスの割れる音が響く。振り返ると部屋の中は棚が崩れ落ち、見るも無残な状態になっている。

悲鳴と共に同じフロアの別の会社の人たちもエレベータホールに這い出してくる。彼女らは防火扉が閉まらないように必死に押さえている。

「あと1分この揺れが続いたら、床が落ちるんじゃないだろうか?」
「だとしたら、目の前の階段に飛び移ったほうがいいか?」 (ニュージーランドの地震でもそうだったように床が落ちて階段が残るケースは多い)

そんなことを考えているうちに、揺れがおさまる。カバンと携帯電話を取りに部屋に入る。こぼれたコーヒーのにおいがする。

いったんビルから出る。家族に電話するが、繋がらない。メールも送れない。家に帰れなくなることも考えて、防寒のためにコートとマフラーを取りに戻る。

「このビルはヤバい。早く出なきゃ!」

とりあえず広い場所を求めて歩き始める。歩道の路面が浮き上がっていたり、ビルの壁面タイルが剥がれ落ちたりしているところがある。

桜木町まで来たところで、大きな余震に遭う。ビルの壁面がしなっているのが見える。

そのとき、オフィスが焦げ臭いように感じたことを思い出す。

「あっ、あれだ!」

その原因が思い当たり、慌てて関内のオフィスに引き返す。

やっぱり焦げ臭い。ある熱を持つ機器が原因だった。その機器の電源を切り、ブレーカーの主電源を落として、出てきた。

「危ないところだった。さぁ、帰ろう。」

バスは満員。道路は大渋滞。肚を決めて歩くことにした。途中、知り合いの店や事務所に立ち寄りながら2時間で帰宅。つくづく職住近接のありがたみを感じた。

2011年2月12日土曜日

環境教育Ver.3:ソーシャル化する企業の環境教育

この10年間で企業の環境教育研修は大きく変わってきた。私が10年前にIT系コンサルティングファームでISO14001認証取得企業向けの環境教育eラーニングサービスを立ち上げた頃とは隔世の感がある。
この10年間における環境教育研修の最も大きな変化は、その「位置づけ」である。一部の先進企業では、「対策」「管理」「義務」という「守り」だけでなく「社会貢献」「顧客創造」「持続的な発展」という「攻め」に転じている。
いったいなぜそのような変化が起きたのか?
10年間前の環境教育研修をVer.1とすると、先の問いを「なぜ環境教育研修がバージョンアップしたのか?」と言い換えてもよい。ここでは、そのバージョンアップの背景について考察する。

環境教育Ver.1:インプット型

10年前の2001年といえば、国内の企業でISO14001認証取得が盛んだった頃である。ISO取得企業では、ISO14001の4.4.2 能力、訓練及び自覚」に定められた通り、自社の事業活動が環境にどのような影響を与えているかを自覚するための社員教育が求められた。
そこで、「環境問題の概要」、「自社の事業活動による環境影響」、「自社に関わる環境法規制」などについての「知識」をつけることで、社員の自覚を促そうとした。
この環境教育をVer.1とすると、それは「インプット型」だったと言える。環境教育Ver.1の課題は、「コスト」と「マンネリ」である。

課題1 コスト

ISO14001の4.4.2 能力、訓練及び自覚」が求める「自覚」の対象は、全従業員である。このおかげでISO認証取得を支援している監査法人系コンサルティングファームは、認証取得で儲け、認証取得後の監査と社員教育で儲けた。
もともと環境対策は企業防衛のための必要コストだった。そこにISO14001による管理、管理、また管理で環境対策コストが増大した。
ISO14001の4.4.2 能力、訓練及び自覚」が求める全社員教育のコストを抑えるために登場したのが、私も立ち上げに関わったeラーニングだった。全社員が受講した履歴を取る必要からeラーニングのほうが好都合だった。それは、環境教育がまだVer.1「インプット型」だったゆえに可能だった。

課題2 マンネリ

もう一つの課題である「マンネリ」は、製造業以外の業種、製造部門以外の職種に起こった。製造業以外の業種、製造部門以外の職種における環境影響といったら、「」「ごみ」「電気」の3点、それに営業車があればその「燃料」ぐらいなのだ。
それは、ネタ切れして当然だろう。2000年代半ばごろから環境教育は新しい方向に向かう。

環境教育Ver.2:アウトプット型

2003年ごろから、一部の先進企業に新しい環境教育の動きが現れる。
CSR(企業の社会的責任)が企業に求められるようになった。それに伴い、環境教育はCSR教育の一部に位置づけられ、「企業の社会貢献」としての目的が加わるようになる。私は調子に乗って、CSR教育のeラーニングを開発していた。いま思えば、環境教育Ver.2の本質がまるでわかっていなかった。

CSRに加えて、大きなイベントが新しい環境教育を方向づけることになった。
きっかけは、2003年10月に制定された環境教育推進法だ。これは、企業に対する義務がなんにもなく、ただの「スローガン」みたいな法律だ。当時、この法律を取り上げるメディアは環境情報誌以外にはなかった。
このままだったら、「当時野党だった民主党による選挙対策のためのパフォーマンス法律」で終わっていたはずだ。ところが、そこから日本が国連に働きかけて、2005年に国連で「持続可能な開発のための教育(ESD)の10年」という宣言が採択される。
CSRとESDが重なった流れで、企業がNPOと組んで環境活動を展開したり、企業の社員を講師とした学校向け環境教育を行ったりと、企業の知識・技術を社会へ転換する形で環境教育がアウトプット型にバージョンアップしていった。
アウトプット型において、環境問題とその解決策の一例として自社の環境技術を紹介する企業も現れる。これは見事に成否が分かれる。
その成否は、「だれがやっているか」で決まる。「環境問題の解決が自分たち(その人本人、自社、社会)の存続に不可欠」と腑に落ちた人たちがやっているからこそ受け入れられる。
環境教育がインプット型からアウトプット型になり、上っ面でPR効果、イメージアップ効果を狙おうとすると、まったく逆効果になる。腑に落ちていない人が頭で考えたことを言われると、「上から目線」に感じる。
ある大手メーカーの「すべては地球のために」というスローガンなど、まさに腑に落ちていない広告代理店の連中が頭で考えた「上から目線」の典型例だ。
地球は摂氏4,000度の灼熱地獄から誕生した。誕生直後は地表に酸素はなく二酸化炭素と放射線が充満していた。そこから46億年をかけて、ようやく人間が住めるようになった。その人間が環境をどれだけ破壊したところで、地球は困らない。
地球にとっては誕生後の数億年に比べれば、人間の環境破壊などインフルエンザぐらいなものだ。ならばインフルエンザウィルスを殺せばよいだけである。「すべては地球のために」とはインフルエンザウィルスが「すべては人間のために」というようなものだ。馬鹿げている。
環境教育がVer.2にアップグレードしたことで、こうした企業の「消費者との目線の乖離度」が私たち消費者に明け透けになった。
その一方で、環境教育Ver.2に成功した企業では、それが「消費者と目線を合わせる効果がある」ことに気づいた。そのような企業では、2010年代に入り、再び環境教育のバージョンを上げていく。

環境教育Ver.3:体験・共感型

2010年代に入ると、体験型の環境教育を試みる企業が増えてきた。正確言えば、次の3種類がある。
  • 消費者向けの環境イベントに社員参加を促したもの(Ver.2の発展形)
  • 社員向けの環境教育研修を消費者参加型に発展させたもの
  • NPO主催の環境イベントに社員を参加させるもの
いずれにしても、これらに共通するのは「体験型」であるという点だ。
この場合の「体験型」は、必ずしも自然体験でなくてもよい。東京ガスの「エコクッキング」のような自社技術を使った省エネ体験なども含まれる。
なぜ体験なのか?
これには、2つの理由がある。

理由1. 環境意識の根源は共感

環境教育Ver.1インプット型によって、確かに知識が頭に入るかもしれない。だからといって、腑に落ちるわけではない。だから、環境推進室にうるさく言われる「紙」「ごみ」「電気」を減らせば、それでよい。間違っても、マイバッグ、マイボトルなど持ち歩かない。
これは、毎年夏が近づくたびに「ダイエットしなきゃ」と言っている人の心理と同じだ。夏が過ぎたらどうでもよくなる。ダイエット成功者の私の経験では、ダイエットの理由が腑に落ちれば、ダイエットに成功する。
「腑に落ちる」の腑とは内臓のこと。頭ではない。「腑に落ちる」には、頭でわかる環境教育Ver.1では無理だ。体で感じるしかない。
環境意識の場合は、できれば集団的な体験がよい。ダイエットでは、行動するのも受益するのも自分だ。ところが、環境問題では自分の行動の改善が自分以外、とりわけ自分よりも若い世代に便益をもたらす。それゆえ、環境問題は「共感」することで腑に落ちやすくなる。

理由2. 顧客と共感するソーシャルメディア

商品開発、マーケティング、営業の現場では、消費者目線で考えるのは鉄則だ。モノ余りの現代においては、消費者目線で感じあうレベルが問われる。
また、近年、Twitter、Facebookといったソーシャルメディアが台頭してきた。企業もソーシャルメディアに打って出たい。ところが、そこは企業が情報を統制できない世界だ。消費者目線で感じあう感覚がなければ逆効果になる。諸刃の剣だ。
その点、体験型環境イベントは、リアルなソーシャルメディアだ。バーチャルのような一人歩きの心配がない。バーチャルなソーシャルメディアに踏み込む前に消費者目線で感じあう貴重なトレーニングの場なのだ。
環境教育の最新版がVer.3なのは、奇遇だ。「コトラーのマーケティング3.0 ソーシャル・メディア時代の新法則 」を読んだことのある方は、ご存知かもしれない。マーケティングの大家フィリップ・コトラーの説く「マーケティング3.0」とは、まさに「ソーシャル・マーケティング」のことだ。
2010年代初頭における企業の環境教育とも合っている。企業の環境教育もソーシャル化に向かっているからだ。それは、マーケティングにもフィードバックする可能性がある。もはや企業にとって環境教育は、「守り」から「攻め」に転換するためのトレーニングの場だと言える。